チャという植物が元々日本に自生していたかどうか詳しい事は分かっていませんが、西日本の山間部には自然に生えているチャの木がたくさんあり、これを利用していました。
このようなチャをヤマチャと呼んでいました。
このような事から、日本に自生していたのでは?と考えらていましたが、
- 人の手が入っていないところには存在しない
- チャという植物の呼称が、日本ではチャ以外に聞かれない
- 遺伝子研究によって、日本のチャは中国との関連が極めて強い
上記の事などからチャは外来の植物ではあることはほぼ間違いないと考えられていますが、それがいつの時代のことかは分っていません。
奈良時代~平安時代
正倉院文書や平城京跡から発掘された木簡に「荼七把」「荼一石三斗八升」というような記載が頻繁に出てきます。
荼
という文字は古代においては現代の茶と同じ意味で使われていましたが、他にはニガナという野菜としての意味もあるため、「荼」が「茶」を指しているのかどうか結論は出ていません。
日本のお茶に関する最初の確かな記録は、平安時代初期の「日本後紀」に記されています。
「弘仁6年(815年)4月22日に中国に留学経験のある僧永忠が近江国韓崎で嵯峨天皇に茶を呈した」
この頃の朝廷では、天皇・貴族が唐文化に対する強い憧れを持っていました。
漢詩が好んで作られ「茶」「荼」「煎茶」と言った言葉が現れる
朝廷内に茶園が設けられ「造茶所」で製茶作業が行われていた
同年6月に嵯峨天皇は近畿地方に「殖茶」をさせた
このような事から茶に対する嗜好が強いことが伺えます。
また、この頃に飲まれていたのは「茶経」にある餅茶だったとされてます。
鎌倉時代~南北朝時代
1191年、宋から帰国した栄西は臨済宗の開祖として有名ですが、茶に関しても大きな足跡を残しています。
もたらした茶
帰国直後、長崎県平戸の富春園に日本最初の茶園を、さらに福岡と佐賀の境にあたる背振山にも茶園を開いたと言われています。
幕府公式の記録である「吾妻鏡」によると、「二日酔いの三代将軍実朝に茶を勧め、実朝がそれを飲んだところたちどころに不快が消えた」との記載があります。
また、栄西は中国の様々な書物を引用し「喫茶養生記」を著しました。
同書の内容は彼自身が宋で体験した茶に関するものや、当時の製茶法などが書かれています。
栄西がもたらした茶と言うのは、圧力を加えずに乾燥させた葉茶を石臼で挽いた抹茶法でした。
中国では消滅しましたが、日本では独自に発展していきました。
本茶
栄西は自らがもたらしたチャの種子を京都栂尾高山寺の明恵上人に贈りました。
高山寺は「日本最初の茶園」とされていますが、これが日本における最も由緒正しい茶とされ、「本茶」と呼ばれるようになりました。
南北朝時代
南北朝時代になると、農村においても農民の自主独立の気風が高まり、こうした集団での楽しみの中で「闘茶」などが流行りました。
室町時代~江戸時代
室町時代になると宇治茶が急成長し、江戸時代においては宇治が碾茶の生産を独占しました。
これは蓆などで被覆する覆下の技術は宇治だけに設置が許可されていたとも言われています。
侘び茶の成立
茶の湯が後に日本を代表する文化になったのは、深い精神性によるところが大きいと言われています。
- 村田珠光…茶道の祖といわれ、一休に参禅したことにより、茶に禅の思想を加えた
- 武野紹鴎…珠光の精神を深めた
- 千宗易=利休…堺の豪商出身、紹鴎の弟子、茶の湯を大成
江戸時代
蒸し製煎茶の開発
1738年、宇治湯屋谷の永谷宗円が、従来の碾茶の製法と番茶の製法のそれぞれ良いところを組み合わせて、新しい煎茶の製法を完成させました。
永谷宗円はこの茶を江戸日本橋の山本屋(現在の山本山)に持ち込み、高い評価を得て、広がってゆきました。
また、抹茶は濁っているのに対して、煎茶は淹れた時に澄んでいるのが特徴で、これが理由で文人にも愛されるようになったと言われています。
高級茶の開発
宇治においてはさらなる高級茶の開発も進んでおり、天保時代になって最高級品として玉露が作られ始めました。
まとめ
中国に留学していた僧侶によって、平安時代に伝えられた茶の文化は遣唐使の廃止などで関心が低下し衰退していきました。
日本の茶文化は実質的には鎌倉時代の栄西以後に発展する事となり、独自の道を歩みました。
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