身近な存在であるけれど、あまり知られていない、茶の歴史について簡単に見ていきましょう。
植物としてのチャ
チャという植物の原産地は中国雲南省山岳部だと推定されています。
高さ10〜20mにも及ぶ、野生大茶樹と言われる茶の巨木が発見されており「茶樹王」と呼ばれ、中国では保護されています。
チャから茶へ
植物としてのチャから、今の茶へどのように変わっていったのでしょうか?
食用として
中国雲南省の基諾(ジノー)族の涼拌茶(りょうばんちゃ)のように、生葉をサラダにして食べられていました。
雲南省からタイ北部では「ミアン」、ミャンマーでは「ラペリー」と呼ばれる、葉を摘んで蒸したものを竹筒などに詰めて漬物にしたものなど、原産地周辺では食用にすることは一般的でした。
飲用として
焼き茶…山中のチャの枝を焚き火で炒ってから煮出す
陰干し茶…チャの枝のままとり、そのまま乾燥させる
粗放な番茶…蒸した茶を天日で乾燥
今のような製茶技術はなく、単純な加工のみで作られていました。
チャとティーの分布
チャ、チャイ、ティーやテイなど呼び方が様々ですが、どうしてこのようになったのでしょうか?
じつは、茶が商品として各地に運ばれていった際に、その販売元で呼ばれていた呼称がそのまま根付いたと考えられています。
具体的には
福建省から海路で「テ」→テ、ティー
広東省から陸路「チャ」→チャイ、チャー
ただし、例外もあって西欧では海路で運ばれたはずのポルトガルのみチャと呼ばれています。
広東省のマカオがポルトガルの植民地であったことから、直接入ってきたからだと言われています。
茶利用の始まり
茶が普及していく契機には薬効がありました。(毒消し、覚醒作用、健康維持など)
伝説の皇帝である神農は一日に100近い草を噛んで薬効を確かめ、毒に当たった時は茶を噛んで解毒したと言われています。
しかし、神農は神話の世界の想像上の人物であり、この話は唐時代の文献までしか遡れないそうです。
中国における茶利用の始まり
中国の文献で最初に茶について書かれたものが「童約」(紀元前59年)で、これは四川省の省都で王褒という人物が自分の使用人との間でかわした契約書です。
この契約書の内容に「荼を烹(に)る」「荼を買う」とありました。
荼はのちの茶と推定されています。
唐の時代になると「本草書」に茶の詳しい記述が見られるようになり、陸羽の「茶経」によって茶は高度な文化的存在としての地位を確立します。
茶経の世界
「茶は南方の嘉木なり」
冒頭のこの一節が有名で、これにより中国西南部がチャの原産地であると考えられるようになりました。
茶経では内容が10の項目に分かれて記述されています。
- 茶の起源
- 製茶道具
- 製茶法と品質の見分け方
- 飲茶用具
- 茶を煮るときに注意すべきこと
- 茶の飲み方
- 「茶経」以前の茶に関する史料集
- 茶の産地
- 略式の場合に省いて良い茶器
- 茶の席に掛けておくべきこと
このように茶に関する百科事典のようであり、後世においても聖典として崇められました。
まとめ
最初は食用か飲用かは地域によってことなりますが、その後広がっていったのは飲用でした。
また、陸羽の書いた「茶経」により、茶が文化的な価値や意味を持つようになりました。
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